梅錦

梅錦ストーリー

いままでも、これからも、
うまい酒を追求し続ける

  • 明治5年、
    川之江に創業

    初代・山川由良太は、川之江地域を潤す金生川で水車を使った製油業を営んでいました。その副業として精米を始め、その後酒造りに着手しました。当時の屋号は「藤井」で、銘柄は「藤乃澤」。
    創業以来、梅錦の蔵が建つ金川の町は、かつては近郷近在でも有名な梅林が茂り、代々所有していた梅園も見事な花を咲きほころばせたそうです。「梅錦」の銘は、その美しい梅の花と香りに由来しており、大正5年(1916)7月に商標を登録しています。
    明治・大正・昭和にかけて梅錦の日本酒は地元東予地域の人々の口を潤し、さらには西讃地方へと広がり始めました。

  • 代々の杜氏が
    守り伝えてきた
    梅錦のスピリット

    梅錦の酒は蔵人の努力あってこそ。ほぼすべての工程が手作業だった昔から、杜氏をはじめとした蔵人たちは日本酒の微細の変化を見逃さず、その経験則を後進に伝えていきました。
    「梅錦」たる酒造りを結実させたのが、天性の大杜氏である「阿瀬 鷹治(あせ たかじ)」氏、現代の名工に選ばれた「山根 福平(やまね ふくへい)」氏、石鎚山系と燧灘に囲まれた川之江の地に最適な酒造りに惜しみない努力を費やしました。そして現在、その梅錦魂(スピリット)を受け継いだ蔵人が酒造りと今も日々対峙しています。

  • 主屋・仕込蔵が
    国の登録有形文化財に登録

    川之江から高知に抜ける旧道に面して立つ主屋は明治10年頃の建造で、入母屋造・本瓦葺の重厚な佇まい。仕込蔵とともに地域のランドマークとしてその存在感を放っています。平成13年、梅錦の主屋・仕込蔵は国の登録有形文化財に登録されました。その主屋の軒先には今も酒蔵のシンボルである「杉玉」が吊るされています。

  • 酒造蔵に舞う
    猩々の鬼瓦

    二六焼初代・佐々木六太郎の作。「猩々(しょうじょう)」は能の演目の一つ。猩々と名乗る酒豪の妖精が、酒売りの孝行息子に酌めども尽きない酒の泉が湧く壷を与えたといいます。二六焼は四国中央市の伝統工芸で、ろくろを使わず竹べら一つで緻密な細工を施す焼物。由緒ある鬼瓦が梅錦の酒造蔵を今も見守っています。

  • 全国にさきがけ
    地ビール製造の
    内免許を受ける

    酒税法の規制緩和後、ビール醸造の敷居は低くなり、各地で「地ビール」に取り組む動きが見られました。当社は平成6年に全国で初の地ビール製造の内免許を受け、翌年からビール醸造をいち早く開始しました。平成7年に「梅錦ビール」を発売し、“地ビール”ブームの牽引役となりました。

  • 数々の受賞歴

    昭和40年代、日本は清酒ブームを迎え、名著「ほんものの日本酒選び」にて、梅錦は「西の大関」に輝きました。昭和40年、全国新酒鑑評会にて金賞受賞。以来12年連続の金賞受賞となりました。
    昭和52年に本醸造「つうの酒」、純米原酒「酒一筋」がデビュー。そのなめらかでまろやかな味わいは梅錦の名を一躍全国区に押し上げました。
    令和6年現在、全国新酒鑑評会金賞受賞は34回目を数えています。

    受賞歴を見る

1872年の創業以来、米を選び、水を吟味し、至高の技のもと、つくられてきた「梅錦」。
ただひたすらに、ただひたむきに、「うまい酒をつくる」そのことに専念しつくられた日本酒です。
「梅錦」は、その中に、長い時間に磨かれた伝統の技、高い品質を守るための技術、そして多くの人間の酒づくりへの思いが生きている日本酒。しかも「今」という時代を呼吸する日本酒でもあります。一本では語りつくせない日本酒が、ここにあります。

「顧客満足から顧客感動へ 世代を超えて末永く愛される商品づくりを目指し、
品質最優先を貫きます。 決して変わりません。 決して変えません。
いままでもそうであったように、これからも」
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